【くるま】
ぐらぐらとぐらぐらと
ゆれている
うとうとううとうとう
ねむってる
どのくらいどのくらい
どのくらい
ふっとくるまがとまり
ドアがあく
ああそうかああそうか
家についた
やっと家についたんだ
よかったな
====
あれはそう私が小学4年生の時だったと思う。
私がまだ本能の赴くまま、遊び食べ眠っていた頃の話である。私には既にその頃から他人と少しズレているところがあったらしい。
今でも忘れられないことなのだが、国語の授業で‘一人一つ詩を作ってみよう’という宿題が出されたことがあった。そこで「どんな内容を題材にしてもいい」という先生の言葉を信じ、私は一生懸命に詩を作った。その詩の題名は確か【くるま】だったと記憶している。
私がその【くるま】という詩に込めた想いは、‘うとうと眠っていると気が付いた時には家に着いている、不思議だなぁ’というものだった。それだけの内容かと聞かれればそれだけである。私は、先生の‘ホントに不思議だねぇ’というコメントを期待してその詩を提出した。しかし、返却されたプリントに書かれていた先生のコメントは私の期待を裏切るものだった。
今思えば、これは私の後の人生の一つのターニングポイントとなり、喉の何処に刺さっているのかも分からない魚の小骨のように日常に心地悪さだけを残していった。
先生のコメントには「どこに行っていたのか目的地が分かりません。しっかりとどこに行っていたのかを書きましょう」と書かれていた。
ショックだった。当時の私には受け入れがたいコメントだった。
今なら、それは取るに足らない些細なことで容易く受け流すことができただろう。更には、先生が各生徒に向けたコメントを書くにあたって頭を抱えている姿は、意地悪く言えば滑稽で、してやったりな感想を得ても可笑しくはない。しかし、何も知らない小学生の私にはそういう訳にはいかなかった。
なにぶん、自分が世界の中心であるかのように考え、坎井之蛙の如く太陽と月にばかり酔いしれ、意地汚い蛇を知らず小さく幼く生きていた時代である。
どうして先生はそんなことを言うの?、どこに行ったか?目的地はどこか?なんて全く関係ないじゃないか。先生は何も分かっていない……。
今の私が当時の私の気持ちを代弁すると、‘全くのナンセンスだ’ということになる。
蛙の子は蛙、お玉杓子も蛙も蛇にあらずしてゲロッゲロッゲロッと鳴くばかり。
そう、私は今も昔も少しも変わらずズレたところがある。
そんな私がまた新らたにblogを始めたいと思う。今も昔も変わらず目的地や到着点を持ち得ないblogである。
子供の頃、虫籠に無造作に入れられた蝶の鱗粉を見ては、集めてみたいという衝動に駆られ、摘めるだけ摘めた蝉の命を見ては、したり顔をしたあの頃のように、坎井之蛙の如く生きる私を上から観察をしてみてはいかがでしょう。
===
そんなこんなで…
すみませんでした??
2011年よろしくお願いしますm(_ _)m
※[坎井之蛙](かんせいのあ):見識や考え方が極めて狭いことのたとえ。広い世間のことを知らず、自分だけの狭い見聞にとらわれることのたとえ。もとは井戸の底に住む蛙の意。「坎井」は壊れた井戸。一説には浅い井戸。
[0回]
PR